これみよがし日記

感情の整理箱

言葉を失って今。

11月も10日すぎた。継続すると行っていたのに新しく動画をみまくるということをしていたら10日もすぎていた。なんてこと私からしたらまぁまぁよくある話。最近言語がうっすらどこかに消えていく感覚を覚えている。もちろんそんなことはないんですけど、でも確かに語彙が遠のいていく感覚が自分を怖がらせている。もうこんなことで消えたくないと思うように。自分の摂取した言葉でしか世界を作り上げることができない。自分の世界は言葉でしか作れないのにその言葉が弱くなってしまうなんて、本末転倒だ。自分の理想がなくなっていく気がした。1986年という小説で言葉を取り上げられるように、わたしもそんな感覚が確実にあった。本の言葉を摂取したり、ラジオから話し言葉を聞いたり、そういうことをしないとどんどん言葉が消えていくんだなと思った。最近ビジネス書や傾向本を読んでたから、余白の言葉を失ったぽい。もう一度取り戻したいな。見える世界を広げたい。

女と男は一生分かり合えないのだ

パン屋に入ったら、塩バタークロワッサンが炊きたてだった。きっと熱々でサクサクして自分の五感を十二分に刺激してくるんだろうなと胸を膨らませて購入した。帰る頃、塩バタークロワッサンをチラリと見た。炊きたての札が立ったままだった。バンが永遠に炊きたてであるように、この世には嘘偽りの謳い文句が溢れている。騙されないぞと意気込んでいても、知らず知らずのうちに騙されている。みんなそうやって少しずつ自分の心に嘘をついて生きてきた。誰も責めてなんかいないのに、炊きたてが正義である世の中になってしまった。別にいいんだよ。冷めても美味しいから大丈夫だよ。誰かがそう言ってくれるのを待っているかのようだった。

 昨日バチェラーの3を一気に見た。実業家の友永さんを華麗な美女20人が奪い合うというハードゲームだ。一人の男を捕まえるために、あの手この手を使い、自分をアピールしていく。

いかに自分が相応しい相手であるということをデートの度に証明していく。バチェラーは一人一人に時間を作り、最高のパートナーを見つける。たくさんの魅力的な女性がいる中で、後半戦でパーティ中に自分が選ばれなれないなら先に切ってくれと言った女性・中川さんがいた。中川さんは最後に残った5人中だったら自分が一番相応しくない、選ばれないだろうと自らジャッチをした。友永さんも、中川さんの苦渋の決断に応えようとし、パーティ中に別れを告げてしまった。そのまま途中退室になり、中川さんはバチェラーの幕を閉じたのだった。

この時の気持ちは噛み合ってるようで噛み合ってなかった。友永さんは中川さんの気持ちに対して真剣に応えようとしたが、そんなこと求めてなかった。中川さんはたぶんあの時、労いの言葉が欲しかったはずで、そのことは顔によく出ていた。「そんなことないよ、ゆりには本当に感謝してるよ」って言ってもらいたかっただけだった。ただ疲れたから少しの弱音を吐いて、普通の男女に戻りたかっただけだったのに。でもバチェラーはこの舞台であることを忘れていなかった。そんな弱ささえ捨て去る覚悟で来ていたみたいだった。

とまぁ結末見ればその覚悟どこ置いてきた?という感じではあるのですが、とにかく真剣になればなるほど男女というものは分かり合えないし、交われないんだなと痛感した。人類の課題を毎回バチェラーで突きつけられるたびに私は考えていきたい。終わり。

人生は無駄だからタバコ吸おう

人生は無駄だからタバコを吸おうが何しようが、生きているだけで無駄なのだから何をしてもあまり関係がない。なんなら周りに吸っている人が多いので副流煙という不可抗力のせいで、自分の害が避けられないと分かっているなら、自分で吸った方が気持ちいい気がしていた。大学時代は喫煙の友人の方が多かったのでどうせ肺が汚くなるなら、もはや吸ってた方が良かったのではと思うくらいだ。
というのも、ここ最近いかにストレスなく生きていくかを考えている。一本タバコを吸うだけで寿命を縮めて楽になるくらいなら吸った方が良いのだ。ベランダの外でタバコを吸っている姿を見るのが好きでいいなぁと思ってた。人生を一瞬諦めているような感覚。人生の諦めはエロさへと昇華するのだろうか。この人命削ってるなぁって、人の生命が縮んでいく様を見るのが好きだった。嗜好品として扱っている人の空気が美味しいという言葉も、息ができるという言葉も全部心の底から出た言葉ばかりで聞いていて安心する。喫煙所は性別年齢関係なく受け入れてくれる場所らしい。タバコを吸っている人の方が心のスペースが大きいのかもしれない。
最近レベル上がっているかと聞かれたら上がっている気がしない。一年前と比べて、大学を辞めてからレベルが上がっているかと聞かれたら上がっていない気もする。あの時かけた脳への負担は快楽と負荷がいつも傾いていてまたに出る脳汁に興奮した。今あれが出来ているのかと聞かれると頷けない。死ぬほど集中して仕上げないといけないときに出るあれだ。あの汁は私を遠くまで連れて行ってくれる最高の飛行機。切り詰めて出したアイデアよりもタバコ一本で楽園にち連れて行ってもらえるなら吸った方が5倍は幸せだ。
普段吸わない空気を深く吸えるから、生きた心地がするよ。空気が美味しいからそれでいいんだよ。

痛みは思わぬところで倍増する

お腹が痛い。今日の朝2時頃からずっと痛い。腹部を鈍器で叩かれた後の鈍い感覚が永遠と続いている。誰も止められないからこそ、余計痛む。女の子であることを誇りであるとともに、その代償が大きすぎるとも思う。

さてはて、本題ですが昨日Aさんとして不特定多数の人とお茶をしようと思っていたのですが、冷静に考えてやめました。

やめた理由としては

1、初期の不安定な時に、不特定多数にアプローチをしても質の担保がないから

2、会うだけという行為に何の重みもないまま発車してしまったから

要はもっと考えるべきだった、ということです。毎日少しずつ形を変えて発信していこうと思っていますのでよろしくお願いいたします。見捨てないで。メンヘラなので。

昨日からずっと動画を見続けていたんだけれど、どの映像も思いがたくさん詰まっていて苦しくなる時がある。これでいいのだと自分が信じた世界をただ欲望に忠実に再現していく過程は美しい。期待と高揚感とどこかでみたことあるような安心感と異世界感。平凡な毎日から抜け出せそうな気がしてワクワクするんだ。そんな作品に出会えると嬉しくなるし、悔しいとも思う。自分の方がいいもの作れるもん!なんて子供染みた張り合いをしてしまう。実際悔しいと心の底から思うし、ここにマジれるんじゃね?なんて生意気なことも思っている。本当に勝てるのか。どうしたら勝てるのか。そこ考えないとダメですよね。勝ちたいなら勝ち抜く勝算がないと戦っていけない。ハリセンで戦車に挑むようじゃダメなのです。自分はどこへいきたいのだろうと思うこともたくさんあるけれど、それでも自分の表現したいものに忠実に従うことにしたいと思います。思いの奴隷になる。そんな気持ち。

全ては気合で終わらせられた

この頃、気合でどうにでもなるのではないかと思い始めました。迫りゆく期限に押しつぶされて私はこのまま締め切りという概念に抹殺されて死んで行くんだと思いました。いつだって容赦なく取り立ててくる様は変わらないし、そういう契約なんだけどなんだか弱者のように感じるのは、染み付いた被害者意識だからなんだろう。進捗どうですか?パブロフの犬のように反応し、よだれを垂らすように携帯を伏せる。でそんなことしても実際にそれを結んだのは自分であることに気づかないポンコツなのだ。被害者意識だったりお客様体質から抜け出せない。これはいつからそうなってしまったのだろうか??
思い当たる節もなく、きっと日常生活レベルの一つ一つの動作が自分の体を染み込ませたのだ。レストランに行っても料理が出るのが遅いとクレームが入り、飛行機に乗れば誕生日を祝われなかったとクレームが入る国で育った私からしたら、それが当たり前なのだと錯覚してしまう。周りがそうならそういうものだと認識するのが一般的で、親の背中を見て育つように近くの環境に沿って暮らすことはたぶん自然なことだ。歳を重ねていくにつれてそれがただの人間が浅い人たちだとわかった。世界は誰かの思いで作られているし、その意思が善意であるかは怪しい。頭のいい人が自分に利益が回るように作られていることの方が大半だ。仕組みを作る者が強い。
この世界は誰かの手の上で踊らされている。ちょっとした闇を理解するには時間がかかった。でも、目を背けたくない。その気持ちは遥か遠くに行ける気がした。自分の頭で考えるのやめない。

自分で自分に名前をつける時代

ラーメン食べてご飯も食べたいときあるよね。どうもです。

毎日更新するんだと心に決めたけど、あと10分で今日が終わる。急ぎます。

さっき、どうやったら有名になれるのかを考えていたんだけど、本名を捨てるという手段はとても有効なのではないかと思ってきた。私は本名という親から授かった名前があるけれど、それを名乗ることよりもみんなが一発でわかるような分かりやすい名前にした方が活動して行く中ではめちゃめちゃ手っ取り早い気がした。

というのも、本名というのは1人のユニークな値ではないからだ。鈴木という苗字なら鈴木さんというゴマンといる鈴木の中から勝ちにいかないといけない。田中ならなおさらだ。鈴木という苗字の中で抜きん出なければならないのは難しすぎる。何人抜かないといけないんだろう。本名で活動するよりも、後から公表する形の方が今の時代にはあっている気がする。自分で自分に名前をつける方がコスパの良い時代。とても面白い。

そこでだ、自分につけるなら何が良いだろうかと考えていたのだけれど、あまりにも性格趣味嗜好からかけ離れたものをつけるのはよくない。自分で自分の首を締めるだけだ。どんな活動をしているのか一発でわかる名前が良い。みんなが知っている単語で組み合わせるとより良い。パッと見てこの人はこれをやっている人だとわかるのが短ければ短いほど興味を持ってくれる。現代人の集中力は金魚よりも短いらしい。金魚は9秒のところ、人間は8秒しかないみたい。魚に負けている現実である。つまりキャッチーなものをつけないと見向きもされないのだ。

と色々書いたのだけれど、とにかく自分を見せる方法を考えて生きていかないとこれから生き残ることはできないだろうなと思いました。頑張って生きていこうな。

傷ついて大人になるしかなかった

 

どうもこんにちは。

やることって田舎の森の奥のほうにある湧水のようにどんどん溢れ出るよね。汲んでも汲んでも溢れちゃうからどうすることもできない。でもその水を運び切った時、水を求めていた人たちからお礼を言われるのだろう。

毎日更新しようと思って、継続していたけど長い文章を書いていたら更新するのを忘れていました。旅行記を書いていて、まとまったら出そうと思って書いていたら思ったよりも長くなってしまった。記憶と感触が消え去る前に書き残しておきたかった。匂いも味もしないけれど、とにかく感覚を保存しておきたくてながら書いた。読み返すと誤字脱字も酷く、意味を成してない文もあったが、体温だけはそのままだった。継続するということの難しさを痛感する。感性だけでどうにかしようと思っても、毎日一定の気持ちなんてならない。書きたい時もあれば、書きたくない時もある。人間には波があるから、テンションが上がらない時も上がらない時なんてざらにある。上がらない自分のせいにして、書けませんでしたなんて社会には関係ないことであり、書かなかったら書かなかっただけの信用が消えていくだけだ。誰も待ってはくれないし、チャンスは君の都合に合わせてきてくることなんてほぼない。

「やる気が出ません。」という人がたまにいるけれど、そりゃそうだと思う。その通りだよ。やる気というものは出るものではなくて、やっていくことで湧いてくるもの。何処かの誰かが持ってきてくれるなんてことはない。淡々とこなして行く毎日の中で出てくる脳の物質だよ。

やる気はいつでも出てくると信じてやまないし、やる気スイッチなんてものを探してしまう弱い生き物こと人間ですが、毎朝定時に同じことをやり続けることでしか開けない道がある。やり続けるための意志や動機はしっかり作っていかなければいけないね〜なんてお茶を飲みながら感じるわけです。今日も頑張って生きていきましょう。