これみよがし日記

感情の整理箱

最近のこととか、

僕らはみんな家族という最小単位から形成されている団体だ。生まれてくる限り、その事実からは逃れられない。無作為に作られた団体に苦しめられることもあれば、救われる時もある。大前提として国が血縁関係の団体を家族と定義している。もちろん、自分の意思で団体を作り変えることも可能だ。血の繋がりなんかよりも、心や言葉を交わした数の多さの方が圧倒的に強固な絆を感じる。もっと言葉を交わしたい。どうかなくならないでほしいと願うくらい会話を、人生を積み重ねたい。

漫画って面白いよね。という当たり前の事実に気づくのに10年くらいかかったな。もっと読みたい。

自分はカメラのレンズ越しじゃないと世界を覗けないんだと気付いた。あの時の全能感は、ファインダーから見える小さな四角からしか得られないものだったみたいだ。カメラがないと何も感じないのに、覗くと胸の高鳴りが抑えられなくなる。水の中でやっと呼吸ができたような生き返る感覚。カメラがあれば一生ドキドキできるかな。ずっとドキドキしていたい。

仕事の話をしていると、その人がどれだけ真剣に取り組んでいるのか、向き合っているのかがうっすらわかる時がある。向き合っていないと感じた場合、ちょっぴり冷める自分がいて、態度に出ていないか心配になる。たぶん出ている。けれど直す気もなくて、とにかく早く終わらないかなと願っていたりする。

自分の思っていることを自由に言ってもいい場所だからといって、人の死に群がり、消耗する無邪気な大人たちよ。

生み出したくてクリエイターになった気がするけど、何も生み出せていない現実を受け止められない。どれだけインプットしても出てこない気がするから、とにかく作ろう作ろうって思ってはいるよ。だから自分のことを嫌いにならないでほしい。これは約束ね。

強さって「心の強さ」と「身体的強さ」があると思うが、どちらも個体値で決まっていそうで、生まれた時の運でしかない。完璧な個体値に憧れてしまうけど、それは大変まぐれである。体が弱い場合は身体的強さを求めて、努力する過程で身についた心の強さが目立つ気がする。結果、上限があることを知り諦めたりするけれど、何かが欠けていることによりそれを埋めるように強くなるという経緯は誰しもが経験したことがあるのだろうか。埋めなくても埋まっていた場合の人の人生が知りたい。

梅と感性と忍耐力。

最近寒くなったり、急に暑くなったりしてつらい。暑いと寒いの間でお願いしたんだけど聞いてる?

梅が道端で咲いていたのだけど、不覚にも綺麗だなあと思って目を奪われてしまった。年々いいなぁとかきれいだなぁとか思う回数が減っているような気がしていてすごく嫌だ、澄んだ空気を吸ってないからだろうか。朝起きて窓を開けて今日も空が青いなとかそういうどうでもいいけどどうでもよくない感性が生きているのか不安になる。ちゃんと感じ取れてるかな。人間としての機能を失ってないかな、とか。感覚の基準なんてものはないのだけれど、自分がいいと思うものに信じる力が足りない気がする時がある。例えば、スマホを見ている時。スマホにはたくさんの楽しいアプリがあって、その中の1つにSNSもある。空いた時間にSNSを開いたりして、友達の近況を見たり、世の中の足りないところに切り込んでいく人たちを斜め読んだりする。スマホを眺めていると知らないうちに、誰かの感性がたくさん流れ込んできて、気づけば指を上下に夢中でスワイプしている。私たちは無意識のうちに誰かの感性を消費しているのかもしれない。もっと欲しいと言わんばかりに、上に上にと貪っている姿はまるで、流行を追い求めて死んでいったファストファッションのようだ。

今年の東大の祝辞に「ネガティブ・ケイパビリティ(Negative capability)」というワードが出てきた。すぐには解決できない事柄を受けとめて向かいあい、不可解さや不確かさに耐えて取り組み続ける能力のことを指す。あらゆる出来事がテクノロジーにより早急に解決できてしまうようになった今、何かを忍耐強くわからないまま悶々とする機会がなくなりつつある。Googleの検索窓で一撃瞬殺してしまうもんね。図書館まで行って調べ物してた時代のことなんて忘れてしまいそうになる。それくらい年々時が流れゆくスピードが速いのだ。その速さについていくことに必死になってしまうのだ。無限の時間だけがあったあの頃のように、時に任せて悶々と考えてみる時間が圧倒的になくなった。どうでもいいことに割ける時間がない。意識して今日はもうスマホ見ないとか、それくらいの強い意志を持たないと断ち切れないのだ。

もっと世の中のことを知らないでいる勇気も必要なのかもしれない。自分にとって何が必要で何が必要でないのかをきちんと整理すべきなんだろうな。今向き合うべきでないものに時間を割かないようにして、自分のことをもっと知るべきなんだろう。背景を知ったり、前提知識を理解したり、その人の母国語を学んだり、その行為こそが尊いものであるべきだ。一瞬の快楽に負けずに、わからないことから逃げずにいたいな。そこで得たものはきっとこれからもずっと自分の支えになるだろうし、それが自分だけの感性となっていくのだろう。あの道端で咲いていた梅をただの梅で終わらせたくないから、今日も今日とて引きこもろう。

もう夏かも。

たぶん、夏が来た。いつも突然くるから、身構える前にくるから、困ってしまうよ。暑いという単語しか存在しなくなる季節がきたみたいだ。暑いって言っても寒くはならないし、そんなことわかっているけれど、現実の暑さを受け入れられない。誰かが温度を上げているならよかったのにね。それすらも叶わぬ世界で何をしたらいいのかよくわからないんだ。アスファルト。照らされた顔はビルの反射した光を浴びて火照る。

たぶん、春は終わったんだろう。桜はまだ咲いているのにね。何をするわけもなく、アップアップしている自分が嫌になる。それすら幸せだよ。14時ごろに寝そべって資本主義について考えた。自分は働いて働いて働きまくって金を集める行為に飽きたのかもしれないな。金を集めることよりも、文字を書いたり絵を描いたりする方がマシと気づいたから、寝そべって天井をみてられる。なんのしがらみもなく、上を向いてるだけでいいのに、人だったりお金だったり、必要のないものに囲まれて気づけば雁字搦めになっていることが多い。もっと足と手を伸ばしていいんだと分かってからは、草を育てたり、花を愛でたりする余力が出てきた。最初からそうしていればよかっただけだった。ものすごく遠回りをしたけれど、今は納得ができている。これでいいのだと何度も心の中で復唱した。

窓の外から聞こえる風の音よりも車の走る音の方が大きくて笑う。またドライブしたいなー。今ってホカンスっていうホテルに泊まる遊びが流行ってるんでしょう?そういうことを消費したくなる衝動と理性が接戦を繰り広げている。Twitterのトレンドを追うことに必死な人生は嫌だ。辛い時に逃げたくなる気持ちを抑えてでも、自分と向きたい。

久しぶりかも。

最近、生きてるのか生きていないのか自分でも境目が分からないようになってきた。生きた心地がしないのは、人と関わってないからなのかもしれない。ずっと家にいるのだけれど、ラジオ聞いて合間に仕事してだらだらして過ごしている。どこかでやったことある感覚に似ているなと思ったら、これはあれだ。学生時代の自分と似ている過ごし方をしているんだと気づいた。昼までゆっくり寝て、フラフラしていた学生の時と一緒の時間の使い方だった。あっもしかして実は何にも成長してなかったのかな、と疑った。あの頃と何ら変わりのない心持ちで、ずっとここまで来てしまったことへの罪悪感と、世の中の同世代の人たちの変化についていけず取りこぼされてしまったことへの諦めが混沌としている。誰も止めずに野放しにしてくれたことをとても感謝したい。止めたとしてもきっと聞く耳なんてもってなかっただろうな。

それでも私たちの時間は進んでいて、誰も止めることはできない。生きるしかないという一択のために、心削って生きている大勢人間がいる。そこからはぐれてしまった人たちは二択目を探し始める。探しても見つからなかった者もいるだろう。見つからず終わる者もいる。終わったと心底絶望してからがスタートだった。絶望という暗くて底の見えない沼みたいな空間と出会った時、何をすることもなくただただ楽しかったあの頃を思い出したのだった。そこからぐるぐると回想が始まる。昔みた満天の空に散りばめられた星。澄んだ空気の夜。人間を覆いかぶせそうな木々。すべてが鮮明に蘇る。子供の頃に得た記憶と感触が知りたくなった。もっと原点に帰りたい。そんな気持ちでいっぱいになった。

気づけばレンタカーと山々に囲まれてそうな宿を探していた。もっと純粋なままでいたいと強く思えたから、その想いだけで十分お腹いっぱいだった。自分にもまだそんな気持ちが残っていたことが嬉しかった。まだ生きていけるかもと思った。また更新してみようとも思えた。いろんなことがあった数年だったな。文字を書いていたあの頃にやっと戻れたことへの幸せを噛みしめながら今日はゆっくり寝よう。また明日からがんばろう。おやすみ。

 

お久しぶりです。生きるのってしんどいなぁ。

いつもよりも仕事のやることが多くて辟易する。数年前と何かかわったことがあるかと言われたら、口を噤んでしまいそうになるし、成長しているのかもしれないが、胸を張って言えるほどでもない気がしてしまう。なんでこんなにネガティブになってしまったのか。元気がないのだ。元気になりたい気持ちとそう見せたい見栄のせいで、苦しんでしまっている自分がいる。なんだか最近、大事な人を無くしたくないという気持ちからどうにもこうにも保守的になってしまった。ちょっと変なことして進むよりは確実に、確実にとれるものをやっていこうみたいな。確実なものなんてないんだけど、確率的に失敗しなそうなものやりたいって驚くほど保守的だ。どうしようもない。だって前に進むのはすれ違いを生みそうだし、挑戦することは今の状態を崩してしまうような気がしているからだ。今ここにある幸せがなくなって、遠くに行ってしまいそうな気がして動けない。高望みなんてしません。ただただやるべきことをやって、会社員のようにちょっとだけ仕事して、美味しいご飯を二人でたべられるならもう特にないです、みたいな。令和ってこんなに守りに入る時代でしたっけ?新しい風とか吹いている感がゼロで若干心配ですが、でも実際はこんなもので守りの姿勢に入るほうが安心する。他の人よりは、新しいことにチャレンジするのは好きだし、自分の命なんてどうでもいいって思っているから特に生への執着はないはずなんだが、何にもやりたくない、そんな引きこもりになりつつある。環境のせいなんだろうか。世間が自粛ムードで、不安を煽ったりしてるから気が滅入っているからだろうか。とにかく朝起きてもずっとお布団にいたい気持ちでいっぱいになってしまうのだ。

結局のところ、自分のことは自分にしかわからない。だから困っているのであって、10日くらい一人で旅館にこもって脚本執筆するくらいにはやる気はあるけど、金も時間もわりとない。やる気だけはある。力だけはあるのだ。だったら、せめて時間だけはあって欲しかった。ここで振り出しに戻るのだが、仕事の量が最近増えてきて自分の時間がみるみるうちに減っているのだ。「片手はあけておけ」みたいなことを聞いたことあったけど、まさにそう。片手が空いてないと、他のことや新しいことができないのだ。両手がふさがっていては、お金が落ちていても拾えないのだ。

そんなことをぼんやり考えているうちに、もう夜になっていた。お昼くらいに起きても1日は長い。カメラを片手に街に繰り出すほどのポテンシャルがあったらよかったな。今日もまた、パソコンの前でNetflixをみながらカップラーメンをすするのである。

5/31

久しぶりの休みみたいな。休みじゃないけど、好きなドラマ見て、好きなチーズケーキ食べて、絵に描いたような平穏な一日を過ごせた。今日一日でよかったことと言えば、梨泰院クラスを完全に見きったこと。1つ心残りがあるとするならば、余韻に浸る前にクソみたいな電話をしてしまったことだけが悔やまれる。2周目に入ろう。そしたらまた、あのすっきりと晴れやかな、感慨深さに浸ろう。終わり。

真夜中、愛したい

感情が溢れ出す頃

もう君いない雪景色

忘れるには元気が足りないね

 

自分の全ての臓腑を

かき混ぜても煮え切らないね

単振動 動いても屍

 

過去の自分

見捨てられなくて抱きしめた

思い出すと涙が溢れるね

 

この世の全ての正義を

敵に回しても勝ち抜けないね

誤作動 叫んでも独り言

 

愛したい 丸ごと

包み込めたらよかったな

ほかほかに蒸した肉まんが笑ってる

愛したい 君ごと

時が戻ればいいのに

一点に光る夜中のコンビニが慰める