これみよがし日記

感情の整理箱

梅と感性と忍耐力。

最近寒くなったり、急に暑くなったりしてつらい。暑いと寒いの間でお願いしたんだけど聞いてる?

梅が道端で咲いていたのだけど、不覚にも綺麗だなあと思って目を奪われてしまった。年々いいなぁとかきれいだなぁとか思う回数が減っているような気がしていてすごく嫌だ、澄んだ空気を吸ってないからだろうか。朝起きて窓を開けて今日も空が青いなとかそういうどうでもいいけどどうでもよくない感性が生きているのか不安になる。ちゃんと感じ取れてるかな。人間としての機能を失ってないかな、とか。感覚の基準なんてものはないのだけれど、自分がいいと思うものに信じる力が足りない気がする時がある。例えば、スマホを見ている時。スマホにはたくさんの楽しいアプリがあって、その中の1つにSNSもある。空いた時間にSNSを開いたりして、友達の近況を見たり、世の中の足りないところに切り込んでいく人たちを斜め読んだりする。スマホを眺めていると知らないうちに、誰かの感性がたくさん流れ込んできて、気づけば指を上下に夢中でスワイプしている。私たちは無意識のうちに誰かの感性を消費しているのかもしれない。もっと欲しいと言わんばかりに、上に上にと貪っている姿はまるで、流行を追い求めて死んでいったファストファッションのようだ。

今年の東大の祝辞に「ネガティブ・ケイパビリティ(Negative capability)」というワードが出てきた。すぐには解決できない事柄を受けとめて向かいあい、不可解さや不確かさに耐えて取り組み続ける能力のことを指す。あらゆる出来事がテクノロジーにより早急に解決できてしまうようになった今、何かを忍耐強くわからないまま悶々とする機会がなくなりつつある。Googleの検索窓で一撃瞬殺してしまうもんね。図書館まで行って調べ物してた時代のことなんて忘れてしまいそうになる。それくらい年々時が流れゆくスピードが速いのだ。その速さについていくことに必死になってしまうのだ。無限の時間だけがあったあの頃のように、時に任せて悶々と考えてみる時間が圧倒的になくなった。どうでもいいことに割ける時間がない。意識して今日はもうスマホ見ないとか、それくらいの強い意志を持たないと断ち切れないのだ。

もっと世の中のことを知らないでいる勇気も必要なのかもしれない。自分にとって何が必要で何が必要でないのかをきちんと整理すべきなんだろうな。今向き合うべきでないものに時間を割かないようにして、自分のことをもっと知るべきなんだろう。背景を知ったり、前提知識を理解したり、その人の母国語を学んだり、その行為こそが尊いものであるべきだ。一瞬の快楽に負けずに、わからないことから逃げずにいたいな。そこで得たものはきっとこれからもずっと自分の支えになるだろうし、それが自分だけの感性となっていくのだろう。あの道端で咲いていた梅をただの梅で終わらせたくないから、今日も今日とて引きこもろう。