これみよがし日記

感情の整理箱

ハンドクリームがなくならない

東京の寒空の下、空気の薄い街を歩いていたら、2020年になっていた。

東京には人が消えてしまったみたい。誰もいないからか、東京にもこんな空気あったんだ。人の体温が混ざり合って、酸素が薄くなって絶妙な空気を作っていたのかと思うと感慨深い。澄み切った空気が、声を遠くまで届けられそうだ。

最近、居酒屋で単発でこっそりバイトしていた。やったことないし、数日だったら頑張れるかなと思って働いてみたけど、やっぱりダメだった。何がダメなのかいうと、手が荒れるのだ。物を出すだけなら大丈夫だった。お酒を出して、料理出して、お客さん帰して、料理片付けて・・・ここまでなら大丈夫だった。お客さんは皆同じ顔して同じ皿を待って、飲んで愚痴って帰りたいだけだから、特に悪くはなかった。皆陽気になりたいだけだし、大きな声出したいだけなんだなぁってわかっていたから特に困ることもなかった。問題は皿を下げた後にあった。洗い物をすると、お湯か水で洗う。そして洗剤をつけて洗い物をする。その洗剤が無駄に強力すぎて手が荒れてしまうのだ。もしくはお湯のせいで手にある油が全部消えていく。白い粉が吹く。手から生まれる白い粉が、自分を削っているように思えてきてやめたくなった。もし、働いている人たちが皆そうなのかは怪しいが、手荒れと一緒に戦っていたのではないだろうか。というか、居酒屋に限らず、各家庭でも同じことが起きているのかな。よく女性のデスクの上にはハンドクリームが乗っているのをみる。私は普段皆さんよりも自炊をしないから、手は荒れないから気づかなかったけど、そうか。そういうことなのか。ハンドクリームが必要なのは、女性が主に洗い物をしているという暗示だったのか。もちろん、冬のせいもあると思うけど、冬だけでは白い粉は吹き続けないし、一瞬吹くだけならハンドクリームをデスクになんか置かない。いい匂いだし、手につけて楽しんでいるのかななんて呑気に思っていたけど、そうじゃない。ハンドクリームをつけることで、マイナスを補填していたんだ。男性のデスクにもハンドクリームを見ることがあるけど、やっぱり女性の方が気にしているんじゃないかな。ハンドクリームが置いてあることが、少なからず家事の分配の偏りをほのめかしているのかもしれない。そう思ったら、可愛いなんて言えなくなった。

まぁ、大多数に当てはまる話でもないし、そうかもしれないねくらいの話なので、ハンドクリームは悪の目印だ!なんて言いたいんじゃない。このなくならない風習をどうにかできたらいいね。それか納得して家事ができてるといいねって。そんなきっかけとなればいいなぁという願いです。好きな人ができたらそんな話ができるといいね。それでは。

ホットギミック ガールミーツボーイ

こんな昼下がりに、何してるんだろう。私だけのもの。私だけの世界。

気づけば、3回くらい見直していた。もう4回目に差し掛かっている。女の子って無敵だよね。好きが苦しいなんてもんじゃない。誰にでも感じたことがある感覚が、鮮明に記憶の彼方から呼び起こされる。あぁ、恋って煩わしくてあったかくて急に冷めるよねーなんてね。

ホットギミック。3人の男の子と1人の女の子の話。モデルの幼馴染みと団地の秀才とかっこいいお兄ちゃんと言う最強の布陣が主人公を惑わしていく。初はみんなに優しく平等に包み込んでしまうから、男の子たちは自分の気持ちに苦しみ、嘆く。まっすぐに向き合う初は、誰にでも好意を抱くような態度を取ってしまうことを空っぽの自分のせいでと自分を責める。誰でもいいのかという問いに、明確な答えはなく、誰でもよくないけどバカだから分からないという結論に至る。バカだから分からない。上映中に何度も出てくるワードだ。バカであること。無知であることを認めていくにつれて、男女の関係も深まっていく。分からないけど、今一緒にいたい。分からないけど、好きだと思った。不確定な揺らぎ、曖昧な心と向き合うと、余計に分からなくなる。自分の気持ちって何なんだろう。目の前の人に全力注ぐだけじゃダメなのかな。一人の人を愛し続けなきゃいけないのかな。好きって何なんだろう。

10代特有の閉鎖感と、スレスレの倫理感の間に苛まれていく様は、呼吸を忘れるほどスピードがあった。自分の意思が強固ではない、何色にも染まってない自己と、世間とのギャップを感じ、心と体が追いつかないその感覚が、好きをややこしくする。自分の意思なんてない。何が正しいのか分からない。自分しか分からないけど、自分が分からないからバカなんだって。

女の子が、自分という存在を、自分という乗り物を乗りこなしていく様が描かれていて、解放していく様子を見届けられて嬉しく思う。私たちは自分の足で歩いていける。選択できるんだと強く言える。迷うことだって、恋に苦しくなっても、自分は自分だし、自分以外の人は選択にとやかく言えないんだよ。大丈夫。今を感じ、今を一生懸命生きることでしか満たされない世界。日本。東京。この狭い空間で、叫び続けよう。あなたといたいと今日も思えたよって伝えよう。明日のことなんて置いて、歩き続けよう。そんな映画を見れて今日も幸せでした。終わり。

ごめんね青春!

唯一見ていなかったクドカン作品のごめんね青春を見た。風邪を引いているからか、全体的に怒鳴ってるし、声張ってるからか、風邪が悪化した気がするよ。

役者の重岡くんが好きだから見てたけど、今回重岡が生かされてなくて操り人形という絶妙ないじり方されてたから良さが活かされてなかったなぁ。。序盤のいじりの方が好きだった。出来ないキャラか突っ込ませた方が輝くし、なんなら1番目に好かれない2番目の男の子役やらせたらピカイチなので是非という感じだ。ライブだとみんなの彼氏感出してくるし、ポテンシャルありすぎな。

っと、そんな話がしたかったのではなく。毎回見るたびに思うけど、クドカンの脚本えげつないくらい仕込んでるし、その仕込みを回収しているのすごくない???って話がしたかった。このお話の主線は、男女共学への道を書いているけど、元はと言えばへいちゃんの火事が原因で起こったもので、昔の心残りがこの話を支えている。くだらない日常のことをベースに事件を絡ませているし、イベントがどんどん起きる感じがスリルを味あわせているし、ハラハラするし、自分は一気見したけど毎週見ていた人は来週が楽しみだったんじゃないかな。

そして何より登場人物一人一人が主役であり、脇役が脇役じゃないところが素敵だよね。会話の中でも人間味が溢れている。そういうところが好きなんだなぁと改めて思いましたよ。人間らしさゆえに取る行動が一番心に響いちゃうね。誰かを守ろうとしてつく嘘も、見栄からきて発言しちゃう大振りな発言も、怖くて踏み出せない一歩も、全部が全部、自分に身に覚えのある話だからこそ目を離せないんだよね。人生はつまづいて立ち上がるくらいしかないから、立ち上がる元気くらい他人にもらって生きていくしかないんだなってさ、思う。誰しも悩みを持っているし、大きさ関係なくしんどいこともあるよね〜。辛い時は叫んで行こうね。今日も生きててえらい。

宇宙は広い、愛も。

あ〜宇宙を駆けるよだかをみてから、学校にいた憧れのあの子についてずっと考えている。

学校という狭い社会空間だからこそ、輝いている人間がいて、その人種に向けられる眼差しは誰にも邪魔できないほどの純度を保っている。あの子しかいない。生きていけない、という真っ直ぐな眼差し。あの子の全てを奪いたくて仕方ない独占欲と、触れてはいけない禁断の領域をまたごうとする勇気が、全てを狂わせる。

隣の席のあの子、くらいの距離感を映像越しに見れるのは最高ですね。現実よりも何倍も綺麗に見えるし、好きなように思い出を入れられるしね。

もうちょっと考えてみたいな。

思い出は綺麗なままで

忘年会が近くて、それもまぁまぁ大きい会場でやるから準備が大変で、どうにもこうにも動かなくって。一人でやるしかなくて。でも成長はできるから、やるだけやろうね、なんて言い合うけど、パンクしそう。

人に投げかけ続けるという小さな努力が必要って今更気づく。営業も毎日100人に声かけるとかそういう積み重ねが大事だよねってわかる。頭でわかっててもできないもんでさ、困ったねぇなんて虚空を見つめるしかなくて自分の不甲斐なさを酒に流し込む。

まぁ流し込んでなんかいないんだけど、気持ちはアル中だ。

気晴らしに北海道とか行ってきたけど、その時思ったことは自分の感覚が鈍っているなぁってこと。あんなに素敵な土地に行っても感受性が死んでたら何も吸収できないんだ。北海道に潜む思いをすくい上げることができないなんて、美しい真っ白な大地から何も感じられないなんて、悲しい。もっと心が踊って泣いて叫んでぐちゃぐちゃにしたい。尊さを感じたい。感情的になりたい。

それを淡々と文字に変えていく作業なら頑張れるかな。毎日毎日時は流れていく。止められないから尊くて、儚くて、一瞬が宝物に見えるんだ。今を一生懸命生きれなかったら、これからも一生懸命になれないよね。刹那に込めた感情を解き放ち、思い出となればいいね。思い出は綺麗なままで。

無理なものは無理なのか

自分の不甲斐なさにいつも落胆する。どうしてだろう。期待しているのだろうか。期待はしてはいない。でも何も起きずに終えられることって奇跡なのかなって最近思う。絶対問題は起きるし、その時の対応が全てだと思うけど、どう頑張っても無理なものは無理なんだよなぁ。最後は運が味方してくれるってどこかで聞いたことあるけど、それさえも見放された気がしたよ。生きているだけで尊い。どこかの街の花びらが静かに舞った。

明るい人には明るい人が。

ネットフリックス でクィア・アイを見ました。というのも、テラスハウスを見終わった後に、異常に勧めてくるんですよ。なぜかエンディングまで現れてくる始末。テラスハウスのバージョンじゃなくて、違う番組を勧めてくるってどういうこと?と思いつつも、全部バツ閉じにして見ないフリしてた。何回も何回もやっても出てくるし、どんだけマッチしてんねんと思って時間もあったし見てみようかなと半信半疑で開けてみた。ら、なんとなんと最高にクレイジーでバカ明るいし、そばにいて欲しい。そう、そばにいて欲しい。こんな友達が欲しいって思ってしまった。

これはどういうことなんだろうと思って振り返ってみたら、自分に足りないものを求めていたみたいだった。そうか。私には元気がないのか。全てを吹き飛ばすくらいの元気がなかった。そんな人たちと嫌なこと、泣きたいことを笑ってそんなのどうでもいいことね~って言いたいだけだった。それはさ、なんだろう。足りない穴を埋めたいがために、他人の元気で補完しようとしている感じ。無い物ねだり。自己肯定感が低いことは悪いことではないけれど、いざというとき元気や気合いを出せないようではいけない。やるべきときにひと推しできる勇気が必要だった。人間が酸素を多く取り入れれば活性化するように、魚が海で水を得るように、生きる希望が必要だった。前に進むのを後押ししてくれる勇気が必要で困ってたんだ。

仕事をもらえるということはとても厳しいことで能力じゃないということを痛感しているんだけれども、変われるのかという不安と自分の不甲斐なさをいつも感じているんだよ。今日もまだまだ頑張ろう