これみよがし日記

感情の整理箱

空いた穴は塞がらない

お久しぶりです。地面を照らす太陽が完全に姿を消し、か細い風が足元をすり抜ける季節になりましたね。つまり、寒い。

 

最近、友人を始め、有名人やいろんな人たちが結婚していく姿を見続けている。身近なお友達が幸せになっていくのを見守るのはとても嬉しいことだし、自分もその幸せのおこぼれをもらう感じで、話を聞く度、常に胸は嬉しさでいっぱいになる。だからどんどん幸せになってほしいし、それをどんどん伝えてほしいとも思う。

その反面、気持ちとは裏腹に何かに抜かれたように空っぽに感じることが多くなった。実態はあるのにない。足は地面についているけど浮いている。そんな不思議な感覚だ。なんでこんなことになってしまったのだろう。あんなに他の人を笑顔で祝福していたのに、自分はなぜ空洞になってしまっているのか。

誰かが誰かと愛を誓っている間、私はきっと家でゴロゴロしていて、誰かと誰かがこれからの人生を決めている間、私は一人で内省している。こんなにもシンプルで残酷な現実がそこらに転がっていて、私をいとも簡単に攻めてくる。本当にそれでいいの?と。

みんなと比べることないよ、焦ることないよ。みんなもそう言ってくれるし、自分でも言い聞かせている。でも、やっぱり、二人で築いた愛には勝るものはなくて、心の空洞はそれでしか埋められない。人それぞれの幸せの形は違うと思うけれど、仕事と同じくらい恋愛って力を持っている気がするんだ。嬉しいことがあれば伝えられて、悲しいことがあれば分けられる。友達でもできるけれど、男女間でしか得られない何かはあって、それは一瞬にして幸福という麻酔で全身を麻痺させる。見える景色が煌めいて、全てが満たされていく。いまの私は無敵。

きっと私は世間でいう恋愛体質なのかもしれない。誰かに寄っかかっているときはとても安心するし、ずっとそうしていたいとも思うから。自分がしたいことを難なくクリアしていくみんなを見届けるのが辛くなってくるのはきっとそのせいなんだ。

でもね、自分がなりたい自分になる話はまた別の話で、長くなりそう。自分を許して自分を好きになってあげたらどんなに楽なんだろう。これからも心の穴は空いたまま。バンドエイド貼ったら傷口は塞がるのかな。そんなん血が出た時だけやでって突っ込まれるのかな。見えない血が流れるいま、空いた穴は塞がらない。

 

アバウトタイムを見た

たくさん寝た。死ぬほど寝た。眠ることで、頭の中が整理されているということが本当ならば、きっと明日はめちゃめちゃ頭の回転が早くなっているはず。酷使しちゃおうかな…。

昨日は、寝る前にアバウトタイムを見た。いつも予備知識を入れずに見るのですが、思っていたよりも面白かった。人生の過ごし方についてずっと問い続けてくる映画だけど、タイムスリップという特殊な状況が後々響いてきて、気づいたら泣いていました。どういうこと?

主人公は時間軸を駆使して、自分の人生を、自分の恋を実らせようとする。でも、上手くいかないときは上手くいかないし、失敗したから上手くいかなかったわけではないと気づく。でもそれを無視したくなるくらい好きな女性に出逢う。どうしても付き合いたいから、自分の使えるもの全て使って、彼女と結ばれようとする。問題はそこからで、彼女と家族。自分の大切な時間、人についてタイムスリップを通じて向き合うことになる。1回だけ過ごしたい日もあれば、何回も過ごしたい日もあって、毎日が同じではないこと。だからこそ、毎日が同じ幸せであるように願うことが尊くなり、特別になる。同じことは退屈かもしれないが、取り替えることのできない幸せがそこにはあるのだ。時間軸は実際にはずらせない。例えずらせたとしても、未来からきて今を過ごしているという気分で日々を過ごすべきなんだよって。

あんまり考えたことの無い人生の時間についての話だったので、心に響く言葉しかなかったです。生きている日常が限りなく惜しくて愛せるものになったときわかるのかな。未来の自分に期待したい。

金曜日のパラダイス

今日は金曜日。花金。でも私は家にいる。それが現実で、それ以上でも以下でもない。家に帰って、こうして文字を書くことが幸せだと言い続けている人。嘘ではない。じゃあ本当なのかと言われたら、口籠るだろう。それくらいには曖昧で、私の好きは揺らいでいる。友達と飲みに行くのも良い。医者に行くのも良い。カラオケに行くのも良い。なんでも良いはずなのに、一人でいることに対する後ろめたさが拭いきれない。でも、今日は一人で帰ってもそんな後ろめたさは微塵も感じなかった。むしろ、一人で帰れる幸せを噛み締めて帰ってきた。もう、誰の目も気にしなくなったのだろうか。それか心が鈍くなってしまったのか。何れにせよ、自分の中で何かが動いたのは間違いない。さっき、女性と男性の区別をつけなくてよくて、個性を大切にしていこうという旨のネット記事を読んだ。頷くことしか書いてなかったけれど、まさか自分が現実でそんなこと体現できる人になっているなんて思いもしなかった。そう、これは第一歩なのだ。まだ始まったばかり。だから明日も強い気持ちになれているか、楽しめる体と心なのか、目を見張らなければならないのだ。土曜日。私が私でいて良い日。ずっと起きていたい。

あの夏の思い出はずっとポケットにしまったまま

お題「最近見た映画」

最近観た映画「君の名前で僕を呼んで

ティモシーシャラメ演じるエリオが、年上の大学院生オリヴァーに恋する瑞々しくて切ない夏の思い出の映画。これを観たときの感想は、うまく言葉にできなくて、すごくもどかしかった。心であの夏のひと時を全部感じているのに、言葉にしようとしても適当な言葉が見つからない。私の中の言葉をすべて奪っていくような焦燥感と、もう二度と味わえないような眩しさ。この映画はきっと私の宝物になってゆくのだろうと観ながら思っていました。

映画を観ている間、もうずっと眩しい。映っている風景は煌びやかで、どこをとっても美しい。北イタリアってあんなユートピアみたいなところだっけなって思うくらい、全部好きな風景だった。あんな街で好きな人と恋に落ちることができるなんて、ロマンチックで溺れちゃうね。

私の中にあった恋する気持ちが鮮明に蘇ってきて、エリオとオリヴァーの気持ちが痛いほど伝わる度に泣きそうになった。切なくて怖くて、でも近づきたい。触れたい。触れたい。みんなもそうだったでしょう?

 

そんなこんなで、1回目観た時は感情だけが残ってしまって、ストーリーなど頭に入ってこなかった。ずっとエリオの切ない顔の余韻が響き続けているだけ。心がすっからかんになっちゃった。悔しくてもう一回観に行ったけど、一瞬で終わった。ちゃんと理解したのは3回目から。この映画何回見ても印象が違って、気づくところも変わってくるから面白い。きっとそれだけ思い当たる青春を詰め込んだんだろうな。これを書いてる側でまた見たくなっているもの。私もそんな恋の話作ってみたいな。甘酸っぱくて苦いやつ。美味しくないけど、記憶には残っているような恋の話。いつの日か実現したいな。

自分を好きになるということ。

なんなんだろう、このモヤモヤは。一人でいるって決めたのは自分なはずなのに、あの子の笑い声聞くだけで胸が締めつけられて、喉がキューっと苦しくなる。誰のせいでもない。自分で決めてそうしたのに、自分のせいで首を絞めているなんて思いたくない。

 

会社に行って、座って半日過ぎて、夕方に帰る。それも一種の幸せである事には変わりはないけれど、私の心にポッカリとできた穴は埋めてくれない。

 

やりたいことのために、新しい未来を切り開くために、友達付き合いも最小限にして、なるべく自分の時間を設けるようにしてきたけれど、何だかしっくりこない。自分のなりたい姿を想像しているのに、結局のところなれていない。やっぱり自分がつまらないから?一人で笑い、面白い事をやるのは無理なのか?どうしたらお腹いっぱいに満たされるの?

興味本位でインストールした、ストレス測定をするアプリの結果はいつも『強いストレスを感じています。』という警告のみ。私はずっとこの見えない、私を潰そうとしている敵に怯えながら生きていかなきゃいけないのか?そんなの無理。無理に決まっている。

必死に暗闇で踠いている。誰の手も借りずに、ひっそりと。

上の階から笑い声が聞こえる度、私の心が削り取られていくようにボロボロになってゆく。それでいい、そう思って、必要最低限におさめているつもりだけれど、やっぱり寂しさは正直だ。誰かにぎゅっと強く抱きしめてもらえたなら解決することであることはわかっている。でもそんなこと、言えない。出会って1ヶ月ちょっとの人から、抱きしめてくださいなんて言ったものならば、怪しまれるし、もうやっていけなくなる気がするからやらない。せめて、そういうところだけはちゃんとしたいからね。

自分のつまらなさに向き合うことができなくて、ずっと知らないフリしてる。だから、いつまで経っても満たされないままなんだ。面白くないところも認めて、ちゃんと自分を愛してあげられているならそんなこと起きてないはずだ。自分を好きなる。ダメなところも許してあげる。そして、自分だけでなく、他人にも同じように。

 

テストが終わって、気が緩んでしまったのかもしれない。一時的な気の緩みでもいいや。ちゃんと言語化しただけでも偉い偉い。心が廃れる前に手を打てた。明日の自分も分からないけど、血を通わせて、負の感情を持って、生きていこう。明日は金曜日。君の世界が広がる絶好のチャンスだね。良い日になりますように、おやすみなさい。

色あせないネタの話

ふとした瞬間に昔の記憶にタイムスリップすることがあって、全身が懐かしさに覆われる時がある。あの時にあーどうしようもなく好きだ、と思った感覚は割と覚えていることに驚きつつも、今とツボと少し変わったかもな、とも思う。どうしてあんなに笑っていたのか思え出せないけど、楽しかったのは事実で、幼かった自分は間違いなく本人であり、きちんと笑っていたはずだった。何が面白かったかまでは言葉で言えなかったけど、馬鹿笑いしていた記憶だけが、きちんと物語っている。

というのも、久しぶりにテレビで漫才やコントの番組を見たからで、芸人さんたちが喋っているのを見て思い出した。もちろん、普通に客として笑っていたし、面白かったのだけど、それよりも先に懐かしさの方が先にきた。幼い頃にテレビで漫才やコントを見るのが好きで、やると知っていれば必ず見ていた。今となってはMCやバラエティ番組を引っ張る人たちがたくさん出ていて、今思うと若手だったんだな、なんて思うけど、そんなことも一切思わずにただただ純粋にネタを楽しんで見ていた。面白いか面白くないかがあの時の全てで、若手の頃に苦労していた話やすぐに売れただの、その人のバックボーンは関係なくて、ちゃんと笑えるかで笑っていた。だから、結構素に近い状態で完全に自分好みだった。

今でもふと思い出してうわぁとなるツッコミやボケが何個かあるのだけど、その一つにノンスタイルのネタがある。井上さんの顔がかっこよくないことに対して、石田さんが画素数が荒いと太ももを叩くツッコむ流れがあるんだけど、それが今も忘れられない。なんでか知らないけど、すごく昔のネタだし、もっと面白いところ絶対あったと思うけれど、ここだけが妙にピックアップされる。なんでやねん、もっと他にあったやろで終えるのも良いのだけれど、私はあの時面白いと思った自分が信じられない。でもきっと確かなものがあったんだろうな。

あのツッコミは、ガラケーが主役であり、パソコンも画素数がバッチリわかるような時代で携帯の写真の画素数を気にしていた頃だったから、ウケたんだろうな。でも今は間違いなく画素数を気にする必要がないくらいに、画面が綺麗だし、あの頃のような明らかに四角いピクセルはもう見えない。もちろん井上さんが不細工であるという前提が浸透していたことも重要であるのだけれど、あの時代であのタイミングでしか言えないツッコミだったんじゃないのかなと思う。今聞いてもピンとこない、あの時でしか生きられないツッコミだったからこそ、ちゃんと的を得ていて、私は世の中に対して笑っていたのかもしれないな。

思い出した時は、なんで笑ってたのか自分を疑ってたけど、昔の自分の方が何倍も素直でちゃんと生きていたことは確かだった。何十年も変わらずに色あせない歌やネタも好きだけど、それと同じくらいその時でしか笑えなかった歌やネタも大好きです。

アイドルと憧れの話

ここ近年でアイドルという概念が多様化して、色々な種類のアイドルをお目にかかる機会が多くなった。可愛くて笑顔いっぱいの王道系から、引きこもりで人前に出るのが苦手なアイドルまで、バリエーションが豊富になってきていて、ちょっと目を離したら新グループができている印象が強い。そしてウケているのは後者だったりしてそれもそれで興味深かった。

小さい頃からアイドルが好きで好きでたまらなかった子供ではなかった私は、どちらかというとその様子を遠くから見ていた側の人間だった。あの人が好きなんだねーなんて名前すらもうろ覚えで誰がいたかなんて全員言えなかったし、友達の好きな人くらいのふわっとした認識だった。あの頃はまだアイドルとは、という定義があったし、神聖なる領域という感じで気安く触れてはいけないような感じだった。だけど、そんな壁も壊れてしまって今となってはアイドルかどうかの境界線も怪しい時代になり、隣にいてもさほど不思議ではないくらいなものにまでなった。今はアイドルといえばいつでも会えるものであり、ふらっとカフェに立ち寄るくらいの気軽さがある。予定と時間とお金があれば、いつでも行ける。会えないフラストレーションだってすぐに解決できてしまう。きっと今は会いたくて会えない環境が作ることの方が難しくて、自分の意志さえあればどこへだって行けてしまう。会えないことで拗らせてた感情なんて知らないかもしれないと思うと少し寂しい。

ネットは物心ついた頃からあったけれど、スマホはまだなくて、今みたいな便利さはまだなかった。だからアナログ的な感情を持つことを経験してきたし、田舎と都会の区別みたいなものが存在していた。なんでも手に入る華やかな都会は憧れの対象だったし、アイドルもその部類に入るのだと思う。好きな人で頭を埋め尽くしている時間が長くて、会いたい会いたいって思える人がいて、会えた瞬間に優しくなれた気がしていた。現実と夢の境目みたいな、喜びと寂しさとまたにくる惨めさが入り混じる気持ちに襲われることはもうないんだろうな。

もちろん会いたい人だけでなくて、自分の中での不動の最強な人だったり、こうなりたいという理想像だったり、そんな人たちにも思いを馳せていた時間も同じだった。人として最強すぎる、現実にはいないタイプの人間が存在しているという事実を知ることができ、そして定期的に情報を得られることがすごく嬉しかった。それはテレビや雑誌、ラジオなどいろんな媒体から見ることができて、映像や文字を通して伝わる人の熱を受け取れた。頻繁に見られなかったから、そうしたものを集めるのは自分の好きを積み上げてる感じがして好きだった。あの時溜めたような気持ちは現代だとどこに当てはまるのかを最近考えているけど、まだ見つかっていない。あの環境、時代特有のものであって再現性はないのかもしれないな。そんな今、検索しすぎたせいで、スマホの熱で火傷しそうです。