アポ日記

感情の整理箱

色あせないネタの話

ふとした瞬間に昔の記憶にタイムスリップすることがあって、全身が懐かしさに覆われる時がある。あの時にあーどうしようもなく好きだ、と思った感覚は割と覚えていることに驚きつつも、今とツボと少し変わったかもな、とも思う。どうしてあんなに笑っていたのか思え出せないけど、楽しかったのは事実で、幼かった自分は間違いなく本人であり、きちんと笑っていたはずだった。何が面白かったかまでは言葉で言えなかったけど、馬鹿笑いしていた記憶だけが、きちんと物語っている。

というのも、久しぶりにテレビで漫才やコントの番組を見たからで、芸人さんたちが喋っているのを見て思い出した。もちろん、普通に客として笑っていたし、面白かったのだけど、それよりも先に懐かしさの方が先にきた。幼い頃にテレビで漫才やコントを見るのが好きで、やると知っていれば必ず見ていた。今となってはMCやバラエティ番組を引っ張る人たちがたくさん出ていて、今思うと若手だったんだな、なんて思うけど、そんなことも一切思わずにただただ純粋にネタを楽しんで見ていた。面白いか面白くないかがあの時の全てで、若手の頃に苦労していた話やすぐに売れただの、その人のバックボーンは関係なくて、ちゃんと笑えるかで笑っていた。だから、結構素に近い状態で完全に自分好みだった。

今でもふと思い出してうわぁとなるツッコミやボケが何個かあるのだけど、その一つにノンスタイルのネタがある。井上さんの顔がかっこよくないことに対して、石田さんが画素数が荒いと太ももを叩くツッコむ流れがあるんだけど、それが今も忘れられない。なんでか知らないけど、すごく昔のネタだし、もっと面白いところ絶対あったと思うけれど、ここだけが妙にピックアップされる。なんでやねん、もっと他にあったやろで終えるのも良いのだけれど、私はあの時面白いと思った自分が信じられない。でもきっと確かなものがあったんだろうな。

あのツッコミは、ガラケーが主役であり、パソコンも画素数がバッチリわかるような時代で携帯の写真の画素数を気にしていた頃だったから、ウケたんだろうな。でも今は間違いなく画素数を気にする必要がないくらいに、画面が綺麗だし、あの頃のような明らかに四角いピクセルはもう見えない。もちろん井上さんが不細工であるという前提が浸透していたことも重要であるのだけれど、あの時代であのタイミングでしか言えないツッコミだったんじゃないのかなと思う。今聞いてもピンとこない、あの時でしか生きられないツッコミだったからこそ、ちゃんと的を得ていて、私は世の中に対して笑っていたのかもしれないな。

思い出した時は、なんで笑ってたのか自分を疑ってたけど、昔の自分の方が何倍も素直でちゃんと生きていたことは確かだった。何十年も変わらずに色あせない歌やネタも好きだけど、それと同じくらいその時でしか笑えなかった歌やネタも大好きです。

アイドルと憧れの話

ここ近年でアイドルという概念が多様化して、色々な種類のアイドルをお目にかかる機会が多くなった。可愛くて笑顔いっぱいの王道系から、引きこもりで人前に出るのが苦手なアイドルまで、バリエーションが豊富になってきていて、ちょっと目を離したら新グループができている印象が強い。そしてウケているのは後者だったりしてそれもそれで興味深かった。

小さい頃からアイドルが好きで好きでたまらなかった子供ではなかった私は、どちらかというとその様子を遠くから見ていた側の人間だった。あの人が好きなんだねーなんて名前すらもうろ覚えで誰がいたかなんて全員言えなかったし、友達の好きな人くらいのふわっとした認識だった。あの頃はまだアイドルとは、という定義があったし、神聖なる領域という感じで気安く触れてはいけないような感じだった。だけど、そんな壁も壊れてしまって今となってはアイドルかどうかの境界線も怪しい時代になり、隣にいてもさほど不思議ではないくらいなものにまでなった。今はアイドルといえばいつでも会えるものであり、ふらっとカフェに立ち寄るくらいの気軽さがある。予定と時間とお金があれば、いつでも行ける。会えないフラストレーションだってすぐに解決できてしまう。きっと今は会いたくて会えない環境が作ることの方が難しくて、自分の意志さえあればどこへだって行けてしまう。会えないことで拗らせてた感情なんて知らないかもしれないと思うと少し寂しい。

ネットは物心ついた頃からあったけれど、スマホはまだなくて、今みたいな便利さはまだなかった。だからアナログ的な感情を持つことを経験してきたし、田舎と都会の区別みたいなものが存在していた。なんでも手に入る華やかな都会は憧れの対象だったし、アイドルもその部類に入るのだと思う。好きな人で頭を埋め尽くしている時間が長くて、会いたい会いたいって思える人がいて、会えた瞬間に優しくなれた気がしていた。現実と夢の境目みたいな、喜びと寂しさとまたにくる惨めさが入り混じる気持ちに襲われることはもうないんだろうな。

もちろん会いたい人だけでなくて、自分の中での不動の最強な人だったり、こうなりたいという理想像だったり、そんな人たちにも思いを馳せていた時間も同じだった。人として最強すぎる、現実にはいないタイプの人間が存在しているという事実を知ることができ、そして定期的に情報を得られることがすごく嬉しかった。それはテレビや雑誌、ラジオなどいろんな媒体から見ることができて、映像や文字を通して伝わる人の熱を受け取れた。頻繁に見られなかったから、そうしたものを集めるのは自分の好きを積み上げてる感じがして好きだった。あの時溜めたような気持ちは現代だとどこに当てはまるのかを最近考えているけど、まだ見つかっていない。あの環境、時代特有のものであって再現性はないのかもしれないな。そんな今、検索しすぎたせいで、スマホの熱で火傷しそうです。

 

感情と本と私。

ひとつひとつ文字を眺めながら本を読む。ここにある全ての文字が、心の奥底に潜む感情を表し、誰かの心へと移りゆく。まだ出会えなかった自分の扉をこじ開けてくれる。私の鍵穴はここ。そう言われるがままに導いてくれる。こんなにもたくさんの文字が、集合をなすことによって、ただの記号としてではなく、自分を揺さぶってくれるものとして変わる。ここに記されている文字は全て必要で、一つでも欠けてしまったら意味をなさなくなるような文章が好きで、そういう文章に出会えると、その文字一つが尊く感じる。ここにあるもの全てが私の必要なものです、と宣言されているみたいで、ゆっくり見させてくださいねと返事をしたくなる。

本の読み方はひとそれぞれ、といってしまうと話が終了してしまうのだけど、それを実感するのはもっとずっと後の話だった。学校に行っていた頃は、試験のために読まなければならない本があったりして(それはそれで普段読まない本に出会えて今思えばよかったのかもしれないけど)、意思とは関係なく強制的に読む機会があった。その時学ぶ読み方は、効率優先だったり言いたいことをパッと読み取る能力だったりして、自分の好きな読み方をするという場面がなかった。だから、みんな授業中は必死になって問題を解いていたし、模試の点数を上げるためにそれ専用の読み方を実践していた。

あの頃は学校という狭い社会の中でのルールが全てで、外の世界を知らなかった私は、好きな本を好きな読み方で読むことが少なかった。(もちろん、勉強としての本以外の本を読んでいたけれど、自分なりの読み方を確立してはいなかった。)やがて学校を出て、誰の指南を受ける環境がなくなった。今まで中々じっくり読む時間がなくて、躊躇していた本たちを触る機会がぐんと増えた。あれもこれも、と探しては読む。好きな時間をかけて、好きな部分を読む。今まで考えたこともないことを考えるようになった。

本の数も蓄積されて、いろんな本に触れていくうちに、自分の好みが分かるようになってきた。強かな女の子の話や、人生に打ち破れた人の話。自分の中で一回通ったことがある感情や状況を見つけると、あ、この話なんとなく分かるなぁ、と納得できた。文字という記号を介して自分の中で落とし込まれることに戦慄が走った。会ったこともない人の、遠い遠いはるか向こうの土地の出来事や、ずっと昔の懐かしい風景を現代を生きる自分にまで届いていることがとても嬉しかったし、すごく不思議なことのように思えた。

あれからも自分の好きな本を見つける作業が好きだし、今も続いている。最近は女の子の複雑な恋心の変化が好きで、よく見たりしている。やっぱり、いつの時代も女の子は無敵だし、最強に可愛い。自意識過剰という言葉があるけれど、過剰になって拗らせている方が何倍も魅力的だ。拗らせてる方は生き辛さに苦しかったりするんだけど。事あるごとに敏感になって拗らせて、その先にあるものを見つけた時、ひとつ違うステージに移っているんだろうな。過剰にならないとわからないものもあることが生きることの救いだ。

時代や環境に縛られて身動きできない女の子。翼がボロボロでうまく飛ぶことができなくなった女の子。すぐにでも最低になれる女の子。

自分のいる環境や立ち位置に頭を悩ました時もあったけれど、そんな感情をすくってくれたのも、誰かが顔の見えない誰かに書いた言葉だったりする。見えない情緒が、文字を通してそこにあるものに変わる。その瞬間、一人の人間が引き上がれるのだ。同じ境遇で落ち込んでいたり、最低な自分にうんざりしたり、嫌になったり。きちんと自分の感情と向き合える、そんな本にこれからも出会いたいな。

引きこもり、街に出る。

家から一歩も出ない毎日を過ごしていたから、久しぶりに遠出するだけでも息切れする。仕事先と家の往復は、何度も繰り返していると心地よくて、毎日と調和する。今日は、予定調和を壊して、少しばかり遠くの街に繰り出してみた。というか、お使いを頼まれたから出ただけなので、そこには自分の意思はない。でもいい機会だし乗っかってみようと思った。いつもの、から抜け出してみたかった。

服のお使いだったが、行った店舗には欲しいサイズがなくて、問い合わせることになった。そこから電車で20分くらいのショッピングモールにあるとのことで、商品を取り押さえてもらってすぐさま向かう。足はやや重たい。気分は上々。

こんなに遠くまで来たの、いつぶりだろう。景色が新鮮で、なんだか自分でない気がしてならない。違和感を覚えながらも、電車に揺られるまま、外を眺めていた。大阪ってこんな街だったかな。

駅からモールに直行する。自分の買いたい服の試着を済ませてから、取り置いてもらった服を受け取る。大したことはやっていないが、一仕事終えたような達成感が残った。

ついでに来たし、近くの美術館にでも行くか。晴れたような気分で、何をみても目新しく映るのではないかと思った。「1枚ください。」「900円です。」入場券を持って、中へ入る。展覧会のテーマは仏像で、重要文化財に指定された仏像が集結した、いわば仏像オールスターズのイベントだ。普段お目にかかれないものがわんさかいるらしい。1つ1つ丁寧にみて回ると、仏像の違いに気づく。仏様のお顔の表情やパーツが微妙に違くて、やはり人間だったんだろうなと我に帰る。神様のような概念が一人歩きして、崇め祀るようなものなのかと錯覚するけど、考えたのも作ったのも人間だ。人の形をしているのを見ると、親近感が湧いた。一応生きてたんだろうな。遠い遠い昔でも、何百年と時をかけて現在まで残っているなんて誰が予想できただろうか。作った人が1番驚いてるだろう。え?残ってるの??嘘でしょ的な。あなたが作った仏像は現世まで、そしてこれからも大切に扱われるはずですよ。

 

長い鑑賞を終えて、物産を見て回る。かわいい朝顔の懐紙が売っていたので、花火と迷ったが、購入した。ついでに割れない花瓶も買った。9月になったら、お花を買おう。

 

気づくともう夕方になっており、急いで梅田に向かう。帰り遅くなったな。久しぶりの買い物で、見るものに刺激を受けてしまって色々買ってしまった。もう来ないでしょ、を合言葉にバンバン買った。梅田に戻り、サンリオ見てパンプス見て、家に帰った。

 

電車の中で、展覧会の前に食べたトロトロしたプリンを思い出しながら、パンプスをネットで買おうと漁った。あのプリン、ファミマとはコンビニスイーツは進化してるなぁ。パンプス見るの飽きたから、飛行機のチケット眺めてたら、もう年末年始の予約が始まってた。嬉しい。ウキウキしてたら、最寄りに着いた。

 

あんまり家から出ないけど、いざ出て見ると、思いがけない刺激を受けて自分の中の遊び心が活性化した。これは粋だなと思えるものに出会えることが、外に出ることの特権だなぁ。引きこもりは、引きこもりながら内なる刺激があるんだけどね。しょうもないこと考えてもオッケーだもんね。

明日こそは、文の仕事しよう。書くことから随分逃げてた。なんでだろう。自分にとって、書くことのハードルが上がりすぎていたのかもしれないな。思い固まってから書こうなんて、一生固まらないしさっさと講評もらってボコボコにされた方がよっぽどマシ。顔面あざだらけで鼻血が出てたとしても、これからもよろしく頼みます。無視するなよ。

8月5日〜6日

七夕祭り。会場を2つはしごした。10キロは歩いた。汗が止まらない。

鴨川であゆビール。焼き鳥。

原住民と神社巡り。1つだけ。

カラオケ朝まで。昼からバイト。

足ガクガク。くらっくらっ。バタンキュー。

8月4日

疲れもなぜかたまってきてる。

ティファニー読了。

バイト。やたら人多かった。

あと怒られた。怒り方なぁ…。

8月3日

お昼から梅田。お好み焼き。オムそば。

心斎橋。たこ焼き。クリームソーダ。

バイト。