これみよがし日記

感情の整理箱

自念脅迫観念

 

なんでそんなに窮屈そうなの?誰かにそう言われてるの?

二年おきに言われる言葉だ。別に誰にそうしろなんて言われたことは全くない。ここに居なさい、これをやりなさい。そんなことを言われたものならば途端にヘソを曲げてしまうような子だった。やだ、やりたくない。今日だって怒っていた。雨の日だからか、電車が23分も遅れているせいで、車掌さんがご迷惑をおかけして申し訳ございませんという響きだけの謝罪をしている。別に車掌さんが悪いわけではないけれど、全ての責任を負って謝罪してますという妙な正義感が、遅延というものをより腹立たしく感じさせる。今日みたいに、自分一人で、そうなってしまった過去のことに怒れるのに、なぜ窮屈そうに見えるのだろう。きちんと感情を外に向けられていないのだろうか。私は急に不安になった。

でも思い返してみると、誰かに感情をぶつける事なんてほとんどない。というか、ぶつけようとしていない。仲のいい人にしか怒らないし、仲のいい人でも仲良くしたいの方が軍配が上がってしまう。知らない人なんて以ての外だ。誰かの身勝手な苛立ちから始まる振り回しや、触れてはいけない部分を触ることによって引き起こされる不本意な八ツ当りが、1日を壊してしまうから嫌なのだ。その日が死んで、今日が終わるなんて、もし朝だったなら絶望しかない。毎日来る今日という日を楽しく生きたくて、もがいているだけなのに。ただでさえ調子の悪い日の方が多いから、少しでもより良いものであってほしい。ただそれだけなのに、なんだか遠回りしてしまう。

でもそれが感情から遠ざかる仕業なら、私はこれから死に続けることになる。嬉しい悲しい楽しい寂しい。いろんな感情を押し殺して、自分が自分で無くなって何も感じなくなる。自らの声を、知らない顔してスルーする。人に押されても笑われても何も思わなくなる無味乾燥な世界を想像するだけで生きるのが怖くなった。

結局、つらつら書いたけれど、自分が一番気にしているだけであるというよく見る着地点な気がするのだ。誰に何も言われていないんだから、もっと自由にぶつかったらいいじゃない。こんな自意識捨ててしまえばいいじゃない。でもね、昔の田舎の閉鎖感が生み出す窮屈な空間のことを体が覚えていて、あの時の湿気った匂いと狭さが忘れられない。底のない沼から黒い手が引き釣り下ろすように、引き留められる。そんなの幻想でしかないのだけれど、あの時の全身で感じた圧迫感はシミとなって未だにぬぐい切れていない。 この手を振り払うことができた時、きっとゆっくりと翼を広げられるのだろう。

で、なんの話だったん?端的に話せー!とか何言ってんだー!とか色々言われるんでしょうね。なんなんこれ?意味分からんねんとか。全部、野党か!のツッコミでぶっ飛ばしたいね。(霜降り明星)知らない誰かの脅迫から逃げて切って、明日も頑張って生きる。